57. こんな話を聞いたことがあるの。 研究職のA夫さんは、大学、大学院そして就職してからも 周りは男ばかりの環境の上、研究熱心で仕事一筋。 男女の色恋事にはトンと疎い人でね、結局恋愛での御縁は なくって親の勧める女性とお見合いして結婚したの。 真面目な人でね、余所の女性に余所見することもなく奥さんと 3人の娘さんたちを育て上げ、嫁に出した後も今まで通り仕事から 帰って来ると夜遅くまで書斎に籠もって研究のための文献を読んだり する日々で。 特に奥さんを喜ばすようなことを形や言葉に出してすることもなく 結婚後、そうしてきたように日々を粛々と過ごしていたのね。 子育ても専業の奥さんにまかせっきりで、典型的な日本の昭和頃 までの父親っていう感じできてて。 だけど、奥さんの子育てや日々の暮らしの中でのことには、いちいち 文句を言ったりして奥さんを不快にさせたりはしてなかったの でしょうね。 そして、やさしさもあったのだと思う。 だって、そのA夫さんの奥さんはね…… 旦那さんのことをとっても愛していたから。 ある夜のこと、A夫さんがいつものように書斎に籠もって研究のための 勉強をしていたら、お茶を持ってきた奥さんがお茶を机の上に 置くと同時にA夫さんの耳元で小さな声で『愛してる』って おっしゃったんだって。 恐らくいきなりの言葉に旦那さんの耳には--------------------------------------------------------アイシテル....ン? Aishiteru...Un? あいしてる...愛してるぅ? ホント? キキマチガエジャナイヨネ?--------------------------------------------------------だったんじゃないだろうか! 奥さんから告白された『愛してる』の言葉をどう受け止めれば いいのか、おたおたしたみたいだったから。 自分たちは大恋愛の末に結婚したわけでもないし、今でも週に2度ほど ある夫婦生活でも、互いに愛してるなどと言葉を交わしたことは 一度もなかったはず。 どういうことなんだ、これは? 妻の真意は? 言葉で伝えられたA夫さんは、オロオロ・ドキドキ。 奥さんの真意がどこに
58.「うん、かあさんの言ってる意味すごく分かる。 僕もそのたったひとりに早く出会えると いいんだけどね」 『出会えるといいわねぇ~。お兄ちゃんもね。 お付き合いすることに関しては難しいことなんてひとつもないの。 自分をさらけ出せて、相手のことも受け入れて互いが誠実に 向き合えばいいだけのこと。 自分のことしか考えられなくなると、ふたりの関係は 終わっちゃうからね。 それとね、良い出会いがなくても、焦らなくていいのよ。 どうしても結婚しなきゃいけないなんてコトでもないんだし。 少し寂しいかもしれないけど、ぼちぼち自分のペースで 人生を歩んでいけばいいと思うわ。』 「「かあさんと久し振りに話できて良かったよ」」 口を揃えてふたりが言った。 「私も。いつかこういう話、しておきたかったから」 息子たちは夫とは真逆のタイプで、片思いばかりでよく 振られるみたいだ。 でも、彼らは若いから、これから……これから。 だけどそんな息子たちを横目にいつかはと思っていたので 今回、私が今まで話したいと思っていたことをちゃんと 伝えることができて良かったと思う。 「かあさん、新しい生活にも慣れて本当に幸せそうだね。 かあさんに離婚を言いだされてから父さん、哀れなもんだよ」 そう、賢也が夫のことを切り出した。「そうなの? 逆だと思ったけどぉ? 大っぴらに行動できて、ウキウキかと思ってた」「表向きはね。いままでと同じように振舞ってはいるけど、何か 精気がないっていうか覇気がないというか。 雰囲気変わったよ、やっぱり。 だいぶ、痛手追ってるんじゃないかなぁ。 まあ、昔と同じようにモテる自分に酔ってるけど60才近いアラ還の 既婚モテ男なんかに近付いてくる女なんて、碌なもんじゃないし 所詮、遊び相手にしかならないんだよ。 仲の良い夫婦なら毎日穏や
59. 「賢也、智也、私ね……愛すべき貴方たちふたりの息子を 授かれたことは本当に私にとって最高のプレゼントだって 思ってる。 だから、夫婦としてお父さんとは上手くいかなかったけど 全てが駄目だったってわけでもなかったと思うの。 今が一番大事だからね、一生懸命前向きに生きるわ。 ここに来るには、ちょっと時間が掛かるけれどいつでも来て。 おいしいモノ作って待ってるから」「ぜひそうする。 ほんと、ここは自然に恵まれていていいところだね。 仕事のことがなかったら、俺もこんなところで暮らしたいよ」 と賢也が言った。 『オレも年とったら、畑してみたい。かあさんがここで 根付いてくれてたら、将来こちらに住む拠点も移しやすそっ。そういう意味でも、かあさん、頑張ってくれよんっ』 と今度は弟の智也が続いて言う。 「西島の父ちゃんがその頃になったら隠居生活に入ってる かもしれんし。譲ってもらえんとも限らんから、おまえ 貯金しっかりしとけっ。」『おっしゃぁ~、お金溜めるべぇ~』 久し振りに会った息子たちはコウやミーミと戯れたり畑へも 一緒に行って野菜を収穫したり、自然を満喫して日曜の午後 帰って行った。 帰ってゆくふたりの背中を見つめ、彼らの行く末が幸多かれと 願わずにはいられなかった。 いつもじゃなくって、瞬間々なんだけどね 幼い頃の息子たちとの日々を思いし懐かしむことがある。 そんな中でも私の荒(すさ)んだ気持ちを解きほぐしてくれた 出来事は私の一生の宝だ。
60. 私が他所の女性と付き合うのを止めるようどんなに頼んでも 分かったと言うだけで馬耳東風、止めようとしなかった夫に 絶望し渇いていた私。 ちょうどその頃、2才を少し過ぎた次男の智也が 台所の椅子に座っている私の側に来て私の頬に キスをしてくれるようになった。 『チュッ』 長男はそんなことをしたことがなかったので最初、すごく 吃驚した。 『₹ャァ ウレピー』 チュッとキスをした後、必ず私に言ってくれた言葉がある。 「おかあさん、しゅきっ ♡」 とてもとても幸せなひとときだった。 それは次男が5才か6才になるまで、結構長い間続いた。 夫からは決して得られない幸せの時間。 私だけを映す次男の瞳がとても愛おしかった。 ** 葵がそんな昔の想い出に浸っていた頃 ** 葵の夫である仁科貴司からの依頼で興信所が動いていた。 ありもしない葵の浮気を暴こうと、男関係を調べていたのである。 敏腕調査員、加藤は確信する。 白、シロ……まっしろ。 仁科貴司の奥さんには一切おかしな行動はない。 加藤と一緒に動いていた若手のスタッフ沢田と玉木も 揃って妻の葵のことをベタ褒め。 『ホレテマウワ』 夫なり妻なりが何か思うところがあって調査依頼して来ると 大抵の場合は、その何かおかしいと思う予感は当たっていることの 方が多いものだ。 今回のように何もないことは本当に珍しい。沢田+玉木: 「「この依頼者の旦那さん、いい奥さんで裏山(うらやば)しいなぁ~♡」」加藤: 「ちゃんと、羨ましいと言えっ」 別居している妻が心配でしようがないようだ。 奥さんは、畑を間借りしていて持ち主である小児科医、西島と よくその畑で一緒になる。 自分たちはその畑の数箇所で2人の会話が拾えるように高性能の ICレコーダーを畑のあちこちに取り付けていた。 後《のち》に回収してその会話を聞いた。 2人の会話はどこにでも転がっているような内容で、時々聞いている 者をもほっこりさせるような楽しくてユーモア溢れる話が あ
61. 2人の関係は、真っ白と報告が上がってきた。 報告書を受け取った貴司は、加藤なる調査員からトドメのひと言を 言われる始末。「あんな素敵な奥さん、私が欲しいぐらいです。 大切になさって下さい。」 普通の人間なら、ここは喜びほっとするところなのだが 元々目的の方向性の違う貴司はガクっときたのだった。 内心では自分もこんな風な結末だろうことは、分かっていたのに。 念のため、録音したという畑でのふたりの会話を聞いた。 葵の声が弾んでいて楽し気だった。 息子たちと話している時の妻の様子に近いモノがあった。 相手に気を許し心を開いている様子を伺い知ることができた。 長年妻が自分に対してどんなに心を閉ざしていたのか 思い知らされる結果になってしまった。 今更、と言われるかもしれないが、いつの間にかこんなにも 妻の気持ちが自分から離れてしまっていたのだと気付いた。 自分は今まで何人の女たちと関わってきたのだろう。 だが、ひとりとして妻ほどに、自分の心を開いた相手はいない。 だが、どうもその妻に対しても俺は言うほど心を開いては いなかったのかもしれない。 きっと妻の方では俺に対して心と心を通わせ合えるような関係を 構築したかったのかもしれないが、俺は自らそれを打ち壊し続けて きたのだろう。 先日の妻の半端ない決意を聞いてしまった以上、焦るものの 妻に家へ帰って来てほしい、また元の家族で暮らそうと もはや言い出せない貴司なのだった。 ******** 特に主になって調査を進めていた加藤は、畑での男女を知るにつけ 今時珍しい実直な2人のファンになっていた。 ある夕暮れ時に見たふたりの姿が今も瞼に焼き付いている。 女性の方が猫を2匹連れて来ていた日のこと。 ふたりが水筒に入ったお茶で休憩していたら、それぞれの膝の上で 猫たちが一匹ずつ寝てしまい、ふたりは猫をそれぞれ自分の子供に するようにやさしく撫でる。 むろん、ふたりは無言だ。 そこには2人と2匹のやさしいたゆとう時間が流れていた。 男と女。 猫と仔猫。 しばらくの間、4つの存在は切り取られたアルバムの中の写真の ように異次元に飛んでいった。 それは美しく清らかな一枚の絵となった。 この
62.遡って仁科貴司が初めて葵の様子を見に畑を訪れた日のこと。 男の自分が見ても水も滴るいい男。 醸し出すオーラからして違っている葵の夫が少し離れた 所に居る。 葵の夫仁科が来た時、たまたま道具と水を取りに行ってた 自分は、2人からはかなりの距離があった。 ふたりの遣り取りの雰囲気から、その場にはいない存在に なるよう努めた。 視界の端でその男を見た瞬間、知らぬ間に昔の思い出の中に ワープしていた。 その場面は子供が幼かった日の運動会で西島の今は亡き妻もいた。 仁科貴司が息子たちを伴って妻である葵と歩く姿を目にすると 余所の奥さんたちは色めきだった。 その様子を見ながら西島の妻は、私はあなたが一番と言ってくれた。 そう言われてうれしかったことを思い出した。 だがあの時、自分は冷静に考えた。 しかし、そんなふうに言ってくれる妻だってどちらに対しても 初対面で、自分かあの男かを選べと言われたなら、きっとあの男を 選ぶだろうと。 それが当然と思えるほどに、仁科は魅力的できれいな男だ。 それでもだ、余所の女房連中がキャーキャー騒ぐ中、あなたが 良いと言ってくれた愛しい妻が偲ばれた。 葵さんも独特の雰囲気を持つ、キュートな女性だ。一切毒のない女性で、派手に着飾って美貌をアピールする でなし、夫の横にいても高慢に振舞うでもなく、しとやかで 清楚な雰囲気を纏い、素敵に見えた。 あの少し毒さえあるような男には、派手で彫りの深い顔に 厚化粧をしているような美人が似合いそうなせいか、皆 奥さん連中は血迷い、 もしかしたら、あのきれいな男の横にいたのは私だったかも しれないと、勘違いしていたのだろう。 そんな雰囲気が彼女たちの言葉や態度から見てとれた。 その様子におかしいやら、あきれるやらしていたのを ふと思い出した。 ◇ ◇ ◇ ◇ 昔の思い出に浸っていたらいつの間にか、葵と貴司の姿が 見えなくなっていた。 仁科貴司はやはり今夜、葵の暮らす家に泊まって いくのだろうかと思った。 昨日は葵からお好み焼きの差し入れがあった。 自分の好きな豚肉がたくさん入っていた。 たくさん持って来てくれていたので、今日はみそ汁を付けて 食べるとするか。 手作りのお
63. 興信所の調査に貴司は落胆を隠せなかった。 きっと、何も事情を知らない調査員がこんな姿を見たら さぞかし不思議がったことだろう。 結果がクロなら分かるが、シロで落ち込むなんて日本中探しても 確実に自分くらいなものだろうから。 ここで往生際の悪いことをしてもどんどん自分だけがドツボに 嵌っていくであろうことはすでにこの頃、貴司は自覚していた。 結局自分だけは不倫や浮気で離婚された悪友たちの二の舞は 踏むまいと先手を打ったものの、ただの足掻きでしかなかったのだ。 どんなにこれからも葵と一緒にいたいと願っても……2度と 葵がこの家に、自分の元に、戻って来ることはないのだ。 葵のいないこれからの生活など貴司には想像もつかない。 今更何をと言われようとも、まだまだ心の整理が必要だ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 夫の貴司と会い離婚を突きつけてからほどなくして あっさりと離婚が成立した。 今後私が困らないようにと、財産分与に追加して今までの お詫び料だと言って更に上乗せした分を夫が渡してくれた。 お金に汚い人でなかったことが救いだ。 年金分割も同意してくれた。 円満に話が進んだので、今後は息子たちの親という立場で スムーズにお付き合いできるのかな? と考えている。 『まっ、こればっかりはしようがないものね~』 夫から役所へ離婚届を出したと連絡受けた後、私は大きく深呼吸した。 この日をずっと待っていた。 長かった。 苦しかった。 切なかった。 そして……ようやくすっきりした。 私は小山内(おさない)葵に戻った。
64 (最終話) 普通は離婚したことなんて誰も進んで言いたがるようなことじゃ ないよね? だけど、私は気が付くと畑に向かって走っていた。 実際は自転車に乗ってたんだけども。 気持ち的には、自分の足で走っていたのだ。 とまれ…… 畑に居るその人に一番に伝えたくて。 離婚が成立したことを西島さんに報告した。 西島さんにとって私が離婚したことなど取るに、足らないことだと 分かっていてもどんなことでもいいから何か彼からの言葉が 欲しかったのかもしれない。 私は風が草花を揺らし続ける静寂の中でその時《彼の反応と言葉》を待った。 そしたら、早速西島さんからデートに誘われた。 デートと言い切るには、私の勝手な妄想が随分と入って いるのだけれど。 「じゃあ、今まで遠慮してたのですが、今度雰囲気の良いお店に 飲みに行きましょう。 帰れなくなったら、私の家に泊めてあげますから」 「ありがとうございます。 ぜひ、お供させていただきます」 そう返事をしたあと、私は畑で西島さんの姿を時々視界に入れつつすぐ いつものように作業をし始めた。 自然が醸し出すきれいな空気と、愛でている野菜たちが 閉じ込めようとしても出て来てしまう照れくささをすぐに 取り去ってくれるから。 心から湧いてくる喜びに私は浸った。うれしいお誘いがあって ……好きな人から誘われて …… Happyな気持ちになって …… 私と西島さんは、もちろん将来を約束している恋人同士ではない。 そんな決まりごとの関係なんて、くそくらえだ! 刹那的と言うのは例えが重苦しいからアレだけど、その一瞬々を 思い切りお気に入りの人と楽しく過ごすって何て素敵。 家に帰ったら絶対彼氏のコウと愛娘のミーミが待っててくれて 必ず~おきゃえり~にゃぁさぁ~い~って出迎えてくれる。 I Wish 私が願ってやまなかった幸せがすぐ側にある。 Happy Life...... 素晴らしい人生がI Love People... 愛お し い人たちが I Love My Cats.. そして愛しい猫たち ――――― Forever ―――― ※番外編へと続く→ 65話66話67話
64 (最終話) 普通は離婚したことなんて誰も進んで言いたがるようなことじゃ ないよね? だけど、私は気が付くと畑に向かって走っていた。 実際は自転車に乗ってたんだけども。 気持ち的には、自分の足で走っていたのだ。 とまれ…… 畑に居るその人に一番に伝えたくて。 離婚が成立したことを西島さんに報告した。 西島さんにとって私が離婚したことなど取るに、足らないことだと 分かっていてもどんなことでもいいから何か彼からの言葉が 欲しかったのかもしれない。 私は風が草花を揺らし続ける静寂の中でその時《彼の反応と言葉》を待った。 そしたら、早速西島さんからデートに誘われた。 デートと言い切るには、私の勝手な妄想が随分と入って いるのだけれど。 「じゃあ、今まで遠慮してたのですが、今度雰囲気の良いお店に 飲みに行きましょう。 帰れなくなったら、私の家に泊めてあげますから」 「ありがとうございます。 ぜひ、お供させていただきます」 そう返事をしたあと、私は畑で西島さんの姿を時々視界に入れつつすぐ いつものように作業をし始めた。 自然が醸し出すきれいな空気と、愛でている野菜たちが 閉じ込めようとしても出て来てしまう照れくささをすぐに 取り去ってくれるから。 心から湧いてくる喜びに私は浸った。うれしいお誘いがあって ……好きな人から誘われて …… Happyな気持ちになって …… 私と西島さんは、もちろん将来を約束している恋人同士ではない。 そんな決まりごとの関係なんて、くそくらえだ! 刹那的と言うのは例えが重苦しいからアレだけど、その一瞬々を 思い切りお気に入りの人と楽しく過ごすって何て素敵。 家に帰ったら絶対彼氏のコウと愛娘のミーミが待っててくれて 必ず~おきゃえり~にゃぁさぁ~い~って出迎えてくれる。 I Wish 私が願ってやまなかった幸せがすぐ側にある。 Happy Life...... 素晴らしい人生がI Love People... 愛お し い人たちが I Love My Cats.. そして愛しい猫たち ――――― Forever ―――― ※番外編へと続く→ 65話66話67話
63. 興信所の調査に貴司は落胆を隠せなかった。 きっと、何も事情を知らない調査員がこんな姿を見たら さぞかし不思議がったことだろう。 結果がクロなら分かるが、シロで落ち込むなんて日本中探しても 確実に自分くらいなものだろうから。 ここで往生際の悪いことをしてもどんどん自分だけがドツボに 嵌っていくであろうことはすでにこの頃、貴司は自覚していた。 結局自分だけは不倫や浮気で離婚された悪友たちの二の舞は 踏むまいと先手を打ったものの、ただの足掻きでしかなかったのだ。 どんなにこれからも葵と一緒にいたいと願っても……2度と 葵がこの家に、自分の元に、戻って来ることはないのだ。 葵のいないこれからの生活など貴司には想像もつかない。 今更何をと言われようとも、まだまだ心の整理が必要だ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 夫の貴司と会い離婚を突きつけてからほどなくして あっさりと離婚が成立した。 今後私が困らないようにと、財産分与に追加して今までの お詫び料だと言って更に上乗せした分を夫が渡してくれた。 お金に汚い人でなかったことが救いだ。 年金分割も同意してくれた。 円満に話が進んだので、今後は息子たちの親という立場で スムーズにお付き合いできるのかな? と考えている。 『まっ、こればっかりはしようがないものね~』 夫から役所へ離婚届を出したと連絡受けた後、私は大きく深呼吸した。 この日をずっと待っていた。 長かった。 苦しかった。 切なかった。 そして……ようやくすっきりした。 私は小山内(おさない)葵に戻った。
62.遡って仁科貴司が初めて葵の様子を見に畑を訪れた日のこと。 男の自分が見ても水も滴るいい男。 醸し出すオーラからして違っている葵の夫が少し離れた 所に居る。 葵の夫仁科が来た時、たまたま道具と水を取りに行ってた 自分は、2人からはかなりの距離があった。 ふたりの遣り取りの雰囲気から、その場にはいない存在に なるよう努めた。 視界の端でその男を見た瞬間、知らぬ間に昔の思い出の中に ワープしていた。 その場面は子供が幼かった日の運動会で西島の今は亡き妻もいた。 仁科貴司が息子たちを伴って妻である葵と歩く姿を目にすると 余所の奥さんたちは色めきだった。 その様子を見ながら西島の妻は、私はあなたが一番と言ってくれた。 そう言われてうれしかったことを思い出した。 だがあの時、自分は冷静に考えた。 しかし、そんなふうに言ってくれる妻だってどちらに対しても 初対面で、自分かあの男かを選べと言われたなら、きっとあの男を 選ぶだろうと。 それが当然と思えるほどに、仁科は魅力的できれいな男だ。 それでもだ、余所の女房連中がキャーキャー騒ぐ中、あなたが 良いと言ってくれた愛しい妻が偲ばれた。 葵さんも独特の雰囲気を持つ、キュートな女性だ。一切毒のない女性で、派手に着飾って美貌をアピールする でなし、夫の横にいても高慢に振舞うでもなく、しとやかで 清楚な雰囲気を纏い、素敵に見えた。 あの少し毒さえあるような男には、派手で彫りの深い顔に 厚化粧をしているような美人が似合いそうなせいか、皆 奥さん連中は血迷い、 もしかしたら、あのきれいな男の横にいたのは私だったかも しれないと、勘違いしていたのだろう。 そんな雰囲気が彼女たちの言葉や態度から見てとれた。 その様子におかしいやら、あきれるやらしていたのを ふと思い出した。 ◇ ◇ ◇ ◇ 昔の思い出に浸っていたらいつの間にか、葵と貴司の姿が 見えなくなっていた。 仁科貴司はやはり今夜、葵の暮らす家に泊まって いくのだろうかと思った。 昨日は葵からお好み焼きの差し入れがあった。 自分の好きな豚肉がたくさん入っていた。 たくさん持って来てくれていたので、今日はみそ汁を付けて 食べるとするか。 手作りのお
61. 2人の関係は、真っ白と報告が上がってきた。 報告書を受け取った貴司は、加藤なる調査員からトドメのひと言を 言われる始末。「あんな素敵な奥さん、私が欲しいぐらいです。 大切になさって下さい。」 普通の人間なら、ここは喜びほっとするところなのだが 元々目的の方向性の違う貴司はガクっときたのだった。 内心では自分もこんな風な結末だろうことは、分かっていたのに。 念のため、録音したという畑でのふたりの会話を聞いた。 葵の声が弾んでいて楽し気だった。 息子たちと話している時の妻の様子に近いモノがあった。 相手に気を許し心を開いている様子を伺い知ることができた。 長年妻が自分に対してどんなに心を閉ざしていたのか 思い知らされる結果になってしまった。 今更、と言われるかもしれないが、いつの間にかこんなにも 妻の気持ちが自分から離れてしまっていたのだと気付いた。 自分は今まで何人の女たちと関わってきたのだろう。 だが、ひとりとして妻ほどに、自分の心を開いた相手はいない。 だが、どうもその妻に対しても俺は言うほど心を開いては いなかったのかもしれない。 きっと妻の方では俺に対して心と心を通わせ合えるような関係を 構築したかったのかもしれないが、俺は自らそれを打ち壊し続けて きたのだろう。 先日の妻の半端ない決意を聞いてしまった以上、焦るものの 妻に家へ帰って来てほしい、また元の家族で暮らそうと もはや言い出せない貴司なのだった。 ******** 特に主になって調査を進めていた加藤は、畑での男女を知るにつけ 今時珍しい実直な2人のファンになっていた。 ある夕暮れ時に見たふたりの姿が今も瞼に焼き付いている。 女性の方が猫を2匹連れて来ていた日のこと。 ふたりが水筒に入ったお茶で休憩していたら、それぞれの膝の上で 猫たちが一匹ずつ寝てしまい、ふたりは猫をそれぞれ自分の子供に するようにやさしく撫でる。 むろん、ふたりは無言だ。 そこには2人と2匹のやさしいたゆとう時間が流れていた。 男と女。 猫と仔猫。 しばらくの間、4つの存在は切り取られたアルバムの中の写真の ように異次元に飛んでいった。 それは美しく清らかな一枚の絵となった。 この
60. 私が他所の女性と付き合うのを止めるようどんなに頼んでも 分かったと言うだけで馬耳東風、止めようとしなかった夫に 絶望し渇いていた私。 ちょうどその頃、2才を少し過ぎた次男の智也が 台所の椅子に座っている私の側に来て私の頬に キスをしてくれるようになった。 『チュッ』 長男はそんなことをしたことがなかったので最初、すごく 吃驚した。 『₹ャァ ウレピー』 チュッとキスをした後、必ず私に言ってくれた言葉がある。 「おかあさん、しゅきっ ♡」 とてもとても幸せなひとときだった。 それは次男が5才か6才になるまで、結構長い間続いた。 夫からは決して得られない幸せの時間。 私だけを映す次男の瞳がとても愛おしかった。 ** 葵がそんな昔の想い出に浸っていた頃 ** 葵の夫である仁科貴司からの依頼で興信所が動いていた。 ありもしない葵の浮気を暴こうと、男関係を調べていたのである。 敏腕調査員、加藤は確信する。 白、シロ……まっしろ。 仁科貴司の奥さんには一切おかしな行動はない。 加藤と一緒に動いていた若手のスタッフ沢田と玉木も 揃って妻の葵のことをベタ褒め。 『ホレテマウワ』 夫なり妻なりが何か思うところがあって調査依頼して来ると 大抵の場合は、その何かおかしいと思う予感は当たっていることの 方が多いものだ。 今回のように何もないことは本当に珍しい。沢田+玉木: 「「この依頼者の旦那さん、いい奥さんで裏山(うらやば)しいなぁ~♡」」加藤: 「ちゃんと、羨ましいと言えっ」 別居している妻が心配でしようがないようだ。 奥さんは、畑を間借りしていて持ち主である小児科医、西島と よくその畑で一緒になる。 自分たちはその畑の数箇所で2人の会話が拾えるように高性能の ICレコーダーを畑のあちこちに取り付けていた。 後《のち》に回収してその会話を聞いた。 2人の会話はどこにでも転がっているような内容で、時々聞いている 者をもほっこりさせるような楽しくてユーモア溢れる話が あ
59. 「賢也、智也、私ね……愛すべき貴方たちふたりの息子を 授かれたことは本当に私にとって最高のプレゼントだって 思ってる。 だから、夫婦としてお父さんとは上手くいかなかったけど 全てが駄目だったってわけでもなかったと思うの。 今が一番大事だからね、一生懸命前向きに生きるわ。 ここに来るには、ちょっと時間が掛かるけれどいつでも来て。 おいしいモノ作って待ってるから」「ぜひそうする。 ほんと、ここは自然に恵まれていていいところだね。 仕事のことがなかったら、俺もこんなところで暮らしたいよ」 と賢也が言った。 『オレも年とったら、畑してみたい。かあさんがここで 根付いてくれてたら、将来こちらに住む拠点も移しやすそっ。そういう意味でも、かあさん、頑張ってくれよんっ』 と今度は弟の智也が続いて言う。 「西島の父ちゃんがその頃になったら隠居生活に入ってる かもしれんし。譲ってもらえんとも限らんから、おまえ 貯金しっかりしとけっ。」『おっしゃぁ~、お金溜めるべぇ~』 久し振りに会った息子たちはコウやミーミと戯れたり畑へも 一緒に行って野菜を収穫したり、自然を満喫して日曜の午後 帰って行った。 帰ってゆくふたりの背中を見つめ、彼らの行く末が幸多かれと 願わずにはいられなかった。 いつもじゃなくって、瞬間々なんだけどね 幼い頃の息子たちとの日々を思いし懐かしむことがある。 そんな中でも私の荒(すさ)んだ気持ちを解きほぐしてくれた 出来事は私の一生の宝だ。
58.「うん、かあさんの言ってる意味すごく分かる。 僕もそのたったひとりに早く出会えると いいんだけどね」 『出会えるといいわねぇ~。お兄ちゃんもね。 お付き合いすることに関しては難しいことなんてひとつもないの。 自分をさらけ出せて、相手のことも受け入れて互いが誠実に 向き合えばいいだけのこと。 自分のことしか考えられなくなると、ふたりの関係は 終わっちゃうからね。 それとね、良い出会いがなくても、焦らなくていいのよ。 どうしても結婚しなきゃいけないなんてコトでもないんだし。 少し寂しいかもしれないけど、ぼちぼち自分のペースで 人生を歩んでいけばいいと思うわ。』 「「かあさんと久し振りに話できて良かったよ」」 口を揃えてふたりが言った。 「私も。いつかこういう話、しておきたかったから」 息子たちは夫とは真逆のタイプで、片思いばかりでよく 振られるみたいだ。 でも、彼らは若いから、これから……これから。 だけどそんな息子たちを横目にいつかはと思っていたので 今回、私が今まで話したいと思っていたことをちゃんと 伝えることができて良かったと思う。 「かあさん、新しい生活にも慣れて本当に幸せそうだね。 かあさんに離婚を言いだされてから父さん、哀れなもんだよ」 そう、賢也が夫のことを切り出した。「そうなの? 逆だと思ったけどぉ? 大っぴらに行動できて、ウキウキかと思ってた」「表向きはね。いままでと同じように振舞ってはいるけど、何か 精気がないっていうか覇気がないというか。 雰囲気変わったよ、やっぱり。 だいぶ、痛手追ってるんじゃないかなぁ。 まあ、昔と同じようにモテる自分に酔ってるけど60才近いアラ還の 既婚モテ男なんかに近付いてくる女なんて、碌なもんじゃないし 所詮、遊び相手にしかならないんだよ。 仲の良い夫婦なら毎日穏や
57. こんな話を聞いたことがあるの。 研究職のA夫さんは、大学、大学院そして就職してからも 周りは男ばかりの環境の上、研究熱心で仕事一筋。 男女の色恋事にはトンと疎い人でね、結局恋愛での御縁は なくって親の勧める女性とお見合いして結婚したの。 真面目な人でね、余所の女性に余所見することもなく奥さんと 3人の娘さんたちを育て上げ、嫁に出した後も今まで通り仕事から 帰って来ると夜遅くまで書斎に籠もって研究のための文献を読んだり する日々で。 特に奥さんを喜ばすようなことを形や言葉に出してすることもなく 結婚後、そうしてきたように日々を粛々と過ごしていたのね。 子育ても専業の奥さんにまかせっきりで、典型的な日本の昭和頃 までの父親っていう感じできてて。 だけど、奥さんの子育てや日々の暮らしの中でのことには、いちいち 文句を言ったりして奥さんを不快にさせたりはしてなかったの でしょうね。 そして、やさしさもあったのだと思う。 だって、そのA夫さんの奥さんはね…… 旦那さんのことをとっても愛していたから。 ある夜のこと、A夫さんがいつものように書斎に籠もって研究のための 勉強をしていたら、お茶を持ってきた奥さんがお茶を机の上に 置くと同時にA夫さんの耳元で小さな声で『愛してる』って おっしゃったんだって。 恐らくいきなりの言葉に旦那さんの耳には--------------------------------------------------------アイシテル....ン? Aishiteru...Un? あいしてる...愛してるぅ? ホント? キキマチガエジャナイヨネ?--------------------------------------------------------だったんじゃないだろうか! 奥さんから告白された『愛してる』の言葉をどう受け止めれば いいのか、おたおたしたみたいだったから。 自分たちは大恋愛の末に結婚したわけでもないし、今でも週に2度ほど ある夫婦生活でも、互いに愛してるなどと言葉を交わしたことは 一度もなかったはず。 どういうことなんだ、これは? 妻の真意は? 言葉で伝えられたA夫さんは、オロオロ・ドキドキ。 奥さんの真意がどこに
56. 心待ちにしていた金曜がほどなくして訪れた。 金曜の夕飯は、私が仕事でも作っているピザを息子たちに 振舞った。 仕事の合間に、3枚余分に焼かせてもらっていたので 息子たちと一緒に、自宅に帰るとすぐにオーブンに入れるだけで すぐに3人でピザを堪能することができた。 「かあさん、智也ずっと片思いしてた子に告白したけど 振られて、コイツ元気なくしてしまってさ。 それで気分転換も兼ねてかあさん家へ来たってわけ!」 「兄貴、改めて言われてオレ凹むわぁ~! オレの恋愛運は親父が根こそぎオレの分持っていってん だよ、ゼッタイ! 親父の子だってのに、どーしてこんなにモテないんだ?」 「それっ、、俺もほぼおまいと同じだから。 スッゲェー、お前の気持ち、言いたいこと分かるわ、マジで!」 「何度かごはん食べに行って、コンサートへも行ったりしてたから 脈有だっと思ってたんだけどなぁ~。 改まってちゃんとした交際を申し込んだから、他に気になる人が いるからごめんなさいって言われた」 『そっか、残念だったね。 だけど、女子と一緒にごはん行ったり、コンサートに行ったことは 智の経験値になってるし、無駄なことじゃなかったと思う……。 交際申し込んだこともね。 お父さんのモテ方が、異常なのよ。比べることない。 同じ血が流れてても、お父さんと違って貴方たちは女の子にモテ ないのかもしれないけど、ちっとも悲観することないのよ? この世でツガイになれる相手はたったひとりなんだから。 ひとり、そう、1人。 愛し、愛してくれる人がいたらいいの。 大勢にモテる必要なんて、ちっともない。 そしてね、人が皆がみんな、今生でそのたったひとりの人に 出会うことができるとは限らないっていうこともね、 知っておいてほしいの。 自分の好きな人が自分を見てくれないってこともあると思う。 好きな人と結ばれることのできる人、残念なことにできない人も いる。 いろんな条件の中で折り合いをつけながら生きていくの。 もちろん、逆もあるしね。 いくら好いてもらっても、応えられないってことも あるかもしれない』